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執筆者の写真青木静香:Visual Artist

謡曲「融」原文

更新日:2019年2月25日


融の亡霊が在りし日の優雅な日々を懐かしみ、荒廃した海の庭園で一夜かぎりの儚き舞い踊ります。作品は汐馴衣に月の影がうつりこんだ様子を描いたもの。

謡曲「融」


季節-秋の半ば過ぎ

ワキ-東国からの旅僧

前シテ-老人

後シテ-左大臣源融


ワキ詞

これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。此度思ひ立ち都に上り候。


下歌

おもひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路をわたり山を越え。千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。


上歌

夕を重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く。着きにけり都に早く着きにけり。


急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。此あたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。


シテ一セイ

月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。


サシ

陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。心も澄める水の面に照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。


下歌

秋は半身は既に。老いかさなりて諸白髪。


上歌

雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。


ワキ詞

如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。


シテ詞

さん候この処の汐汲にて候。


ワキ

不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。


シテ

あら何ともなや。さてこゝをば何処と知ろし召されて候ふぞ。


ワキ

この処をば六条河原の院とこそ承りて候へ。


シテ

河原の院こそ塩釜の浦候ふよ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となど覚さぬぞや。


ワキ詞

実に実に陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる事承りおよびて候。さてはあれなるは籬が島候ふか。


シテ

さん候あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。


ワキ

実に実に日の出でて候ふぞや。あの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに移る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。


シテ詞

何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。若しも賈島(かとう)が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。


ワキ

僧は敲く月下の門。


シテ

推すも。


ワキ

敲くも。


シテ

古人の心。今目前の秋暮にあり。


実にや古へも。月には 千賀の塩釜の。月には 千賀の塩釜の。浦わの秋も半にて。松風も立つなりや霧の籬の島 隠れ。いざ我も立ち渡り。昔の跡を。陸奥の。千賀の浦わを。眺めんや千賀の浦わを詠めん。


ワキ詞

塩釜の浦を都に移されたる謂御物語り候へ。


シテ詞

嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせ つゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となって。地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。


実にや眺むれば。月のみ満てる塩釜の。浦さびしくも荒れはつる跡の世までもし ほじみて。老の波も帰るやらん。あら昔恋しや。


地歌

恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。


ワキ詞

如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。


シテ詞

さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。


ワキ

先ずあれに見えたるは音羽山候ふか。


シテ

さん候あれこそ音羽山候ふよ。


ワキ

音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程 近うこそ候ふらめ。


シテ

仰の如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあた れば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。此辺よりは見えぬなり。


ワキ

さてさて音羽 の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。


シテ詞

語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。


ワキ

さてその末につゞきたる。里 一村の森の木立。


シテ詞

それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。


ワキ

風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。


シテ詞

今こそ秋よ名にし負ふ。春は花見し藤の森。


ワキ

緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。


シテ

あれこそ夕されば。


ワキ

野辺の秋風 。


シテ

身にしみて。


ワキ

鶉鳴くなる。


シテ

深草山よ。


木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。


ロンギ地

眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。


シテ

あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや。


聞くにつけても秋の風。吹く方なれや 峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。


シテ

秋も早。秋も早。半更け行く松の尾の嵐山も見えたり。


嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。


シテ

さす汐時もはや過ぎて。


隙もおし照る月に愛で。


シテ

興に乗じ て。


身をば実に。忘れたり秋の夜の。長物語よしなや。まづいざや汐を汲まんと て。持つや田子(たご)の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも袖にもち汐の。汀(みぎわ)に帰る波 の夜の。老人と見えつるが汐雲にかきまぎれて跡も見えず。なりにけり跡をも見 せずなりにけり。


中入間


ワキ待謡

磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ち顔の。旅寝かな。夢待ちがほの旅寝かな。


後シテ出端

忘れて年を経し物を。又いにしへに 帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。其名を残すまうち君。融の大臣とは我が事なり。我塩釜の浦に心を寄せ。あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮べ。月宮殿の白衣の袖も。三五夜中の新月の色。千重ふるや。雪を廻らす雲の袖。


さすや桂の枝々に。


シテ

光を花と。散らす粧。


ここにも名に立つ白河の波の。


シテ

あら面白や曲水の盃。


浮けたり浮けたり遊舞の袖。


早舞


ロンギ地

あら面白の遊楽や。そもそも明月の其中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。


シテ

それは西岫に。入日のいまだ近ければ。其影に隠さるゝ。たとへば月の有る夜は星の薄きが如くなり。


青陽の春の初には。


シテ

霞む夕の遠山。


黛の色に三日月の。


シテ

影を舟にも譬へたり。


又水中の遊魚は。


シテ

釣と疑ふ。


雲上の飛鳥は。


シテ

弓の影とも驚く。


一輪も降らず。


シテ

万水も昇らず。


鳥は。地辺の樹に宿し。


シテ

魚は月下の波に伏す。


聞くとも飽かじ秋の夜の。


シテ

鳥も鳴き。


鐘も聞えて。


シテ

月も早。


影傾きて明方の。雲となり雨となる。此光 陰に誘はれて。月の都に。入り給ふ粧。あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。


 
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