「定家卿百番自歌合」
※歌番号・表記は「中世和歌集鎌倉編」に従いました。
※灰色文字は訳や解説などです。訳はわりと自由に羽ばたいてます。
健保四年二月、年来ノ愚詠二百首を撰出シ結番ス。
同五年六月、更ニ此ノ番ヲ破リ、少々之ヲ改ム。
同七年、密々天覧ヲ経、勅判ヲ申請ス。
一番 春
左 持 最勝四天王院障子
001 春日野にさくや梅が枝雪まより今は春べと若菜つみつつ
右 千五百番歌合
002 消なくに又やみ山をうづむらん若菜つむ野も淡雪ぞ降
二番
左 勝 仁和寺五十首
003 おほぞらは梅のにほひに霞つつくもりもはてぬ春の夜の月
右 院五十首
004 こころあてにわくともわかじ梅の花散りかふ里の春の淡雪
三番
左 持 院百首 初度
005 うちわたす遠方人はこたえねどにほひぞなのる野べの梅が枝
右 三宮十五首
006 飛鳥河遠き梅が枝にほふ夜はいたづらにやは春風の吹
四番
左 院百首 初度
007 花の香のかすめる月にあくがれて夢もさだかに見えぬ比かな
右 勝 私百首 文治五年
008 春の夜は月の桂もにほふ覧光に梅の色はまがひぬ
五番
左 持 内裏詩歌歌合
009 外山とてよそにも見えじ春のきる衣かたしき寝ての朝けは
右 仁和寺宮五十首
010 春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空
六番
左 持 或所歌合
011 里の海人のしほやき衣たちわかれなれしもしらぬ春の雁がね
右 院百首
012 花の色にひとはるまけよ帰雁今年こしぢの空だのめして
七番
左 持 花月百首 建久元年左大将家
013 桜花咲にし日よりよしの山空もひとつにかほる白雲
右 同上
014 霞立峰の桜のあさぼらけくれなゐくくる天の河浪
八番
左 持 院百首 初度
015 花の色をそれかとぞ思ふ乙女子が袖振山の春の曙
右 内裏詩歌歌合
016 桜がり霞の下に今日くれぬ一夜宿かせ春の山もり
九番
左 持 最勝四天王院障子
017 みよしのは花にうつろふ山なれば春さへみゆき故郷の空
右 千五百首番歌合
018 桜色の庭の春風跡もなしとはばぞ人の雪とだに見ん
十番
左 持 同上
019 桜花うつろふ春をあまたへて身さへふりぬる浅茅生の宿
右 仁和寺宮五十首
020 桜花うつりにけりなと許をなげきもあへずつもる春かな
十一番
左 花月百首
021 槙の戸は軒ばの花のかげなれば床も枕も春の曙
右 勝 内裏詩歌歌合
022 花の色のおられぬ水にさすさほの雫もにほふ宇治の河長
十二番
左 持 同上
023 名取河春の日数は顕て花にぞしづむせぜの埋木
右 同上
024 名もしるし峰のあらしも雪とふる山桜戸のあけぼのの空
十三番
左 千五百番歌合
025 花の香も風こそよもにさそふらめこころもしらぬ故郷の春
右 勝 私百首 文治五年
026 今日こずは庭にや春ののこらまし梢うつろふ花の下風
十四番
左 持 院詩歌合
027 網代木に桜こきまぜ行春のいさよふ浪をえやはとどむる
右 百廿八首 建久七年
028 あはれいかに霞も花もなれなれて雲しく谷に帰る鶯
十五番 夏
左 院五十首
029 桜色の袖もひとへにかはるまでうつりにけりな過る月日は
右 勝 最勝四天王院障子
030 ふみしだく安積の沼の夏草にかつみだれそふしのぶもぢずり
十六番
左 持 仁和寺宮五十首
031 たがためになくや五月の夕とて山郭公猶またるらむ
右 院五十首
032 五月雨の月はつれなきみ山より独もいづる郭公かな
十七番
左 院百首
033 いたづらに雲ゐる山の松の葉の時ぞともなき五月雨の空
右 勝 私百首 閑居百首ト号ス 文治三年
034 山里の軒端の梢雲こえてあまりな閉ぢそ五月雨の空
十八番
左 持 私百首 文治五年
035 玉桙の道行人のことづてもたえてほどふる五月雨の空
右 院庚申五首 健保五年四月
036 なきぬなりゆふつけ鳥のしだり尾のおのれにも似ぬよはのみじかさ
十九番
左 院百首 初度
037 片糸をよるよる峰にともす火にあはずは鹿の身をもかへじを
右 勝 千五百番
038 ひさかたのなかなる河のうかひ舟いかに契てやみを待覧
廿番
左 勝 最勝四天王院障子
039 蘆の屋のかりねの床のふしのまにみじかく明る夏の夜な夜な
右 仁和寺宮五十首
040 うちなびくしげみが下のさゆり葉のしられぬほどにかよふ秋風
廿一番
左 持 院百首 初度
041 いまはとて有明のかげの槙の戸にさすがにおしき六月の空
右 院百首
042 飛鳥河ゆくせの浪にみそぎしてはやくぞ年の半過ぬる
廿二番 秋
左 勝 最勝四天王院障子
043 秋とだに吹あへぬ風に色かはる生田の杜の露の下草
右 同上
044 須磨の海人のなれにし袖もしほたれぬ関吹こゆる秋の浦風
廿三番
左 持 内裏歌合
045 なをざりの小野の浅茅に置露も草葉にあまる秋の夕暮
右 水無瀬殿秋十首
046 浅茅生の小野の篠原うちなびき遠方人に秋風ぞ吹く
廿四番
左 持 最勝四天王院障子
047 うつりあへぬ花の千草にみだれつつ風の上なる宮城野の露
右 私百首 文治五年
048 散らば散れ露分ゆかん萩原やぬれての後の花の形見に
廿五番
左 勝 賀茂社歌合 元暦元年
049 しのべとやしらぬ昔の秋をへておなじ形見に残る月影
右 院五十首
050 秋をへて昔は遠き大空に我身ひとつのもとの月影
廿六番
左 勝 初学百首 養和元年
051 天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月の光なりけれ
右 大輔百首 文治三年
052 いかにせむさらでうき世はなぐさまずたのみし月も涙をちけり
廿七番
左 持 述懐秋歌 建久八年
053 ながめつつおもひしことの数々にむなしき空の秋の夜の月
右 百廿八首
054 むかしだに猶故郷の秋の月しらず光の幾めぐりとも
廿八番
左 勝 花月百首
055 明ば又秋の半も過ぎぬべしかたぶく月のおしきのみかは
右 同上
056 幾里か露けきのべに宿かりし光ともなふ望月の駒
廿九番
左 千五百番
057 高砂の尾上の鹿の声たてし風よりかはる月の影かな
右 勝 仁和寺宮五十首
058 露さえて寝ぬ夜の月やつもる覧あらぬ浅茅の今朝の色哉
三十番
左 千五百番
059 独ぬる山鳥の尾のしだり尾に霜置まよふ床の月かげ
右 関白左大臣家百首 貞永
060 下荻もおきふし待の月の色に身を吹しほる床の秋かぜ
三十一番
左 院百番 初度
061 白妙の衣しでうつひびきより置まよふ霜の色にいづらむ
右 勝 千五百番
062 秋とだにわすれむとおもふ月影をさもあやにくにうつ衣かな
三十二番
左 勝 二見百首
063 山賤の身のためにうつ衣ゆへ秋の哀を手にまかすらむ
右 後京極摂政家十首 建久六年大将ノ時
064 川風に夜わたる月のさむければ八十氏人も衣うつなり
三十三番
左 仁和寺宮五十首
065 秋風にそよぐ田の面のいねがてにまつ明方の初雁の声
右 勝 内裏百首名所題
066 伊駒山あらしも秋の色に吹手染の糸のよるぞかなしき
三十四番
左 勝 水無瀬殿十首
067 高砂の外にも秋は有ものを我ゆふぐれと鹿はなくなり
右 院百首 初度
068 思ひあへず秋ないそぎそ小男鹿のつまどふ山の小田の初霜
三十五番
左 持 千五百番歌合
069 さを鹿のふすや草村うらがれて下もあらはに秋風ぞ吹
右 水無瀬殿十首
070 ゆふづく日むかひの岡の薄紅葉まだきさびしき秋の色かな
三十六番
左 勝 関白左大臣家百首
071 時雨つつ袖だにほさぬ秋の日にさこそ三室の山はそむらめ
右 三宮十五首
072 久方の月の桂の下紅葉宿かる袖ぞ色にいでゆく
三十七番
左 持 院百首
073 契ありてうつろはむとや白菊の紅葉の下の花に咲けん
右 内裏詩歌合
074 ゆふづく日うつる木の葉や時雨にしさざ浪そむる秋の浦風
三十八番
左 花月
075 長月の月の有明の時雨ゆへ明日の紅葉の色もうらめし
右 勝 歌合百首 建久五年左大将家
076 時わかぬ浪さへ色に泉河ははそのもりにあらし吹らし
三十九番
左 内大臣家百首 健保三年
077 あさなあさなあへず散りしく葛の葉に置そふ霜の秋ぞすくなき
右 勝 内裏歌合
078 秋はいぬ夕日がくれの峰の松四方の木の葉の後もあひ見ん
四十番
左 持 二見百番
079 ただ今の野原ををのがものと見てこころづよくも帰る秋かな
右 千五百番
080 冬はただ飛鳥の里の旅枕おきてやいなむ秋の白露
四十一番 冬
左 持 初学百首
081 冬きては一夜二夜を玉ざさの葉分の霜の所せまきまで
右 二見
082 晴曇おなじながめのたのみだに時雨にたゆる遠の里人
四十二番
左 三宮十五首
083 神無月くれやすき日の色なれば霜の下葉に風もたまらず
右 勝 千五百番
084 花すすき草のたもとも朽はてぬ馴てわかれし秋をこふとて
四十三番
左 勝 二見
085 朝夕の音は時雨のならしばにいつ降りかはる霰なるらん
右 閑居百首
086 霰降しづがささ屋のそよさらに一夜ばかりの夢をやは見る
四十四番
左 勝 三宮十五首
087 信楽の外山の霰ふりすさみあれゆく冬の雲の色かな
右 院百首 初度
088 山賤の朝けのこやにたく柴のしばしと見れば暮るる空かな
四十五番
左 大輔百首
089 旅寝する夢路はたえぬ須磨の関通ふちどりの暁の声
右 勝 千五百番
090 なくちどり袖の湊を訪ひかこし唐舟もよるの寝ざめに
四十六番
左 勝 閑居
091 浦風やとはに浪こす浜松のねにあらはれてなくちどりかな
右 最勝四天王院障子
092 志賀の浦や氷もいくえゐるたづの霜の上毛に雪は降つつ
四十七番
左 持 院百首 初度
093 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
右 後京極摂政家雪十首 文治五大納言ノ時
094 待人の麓の道やたえぬ覧軒ばの杉に雪をもるなり
四十八番
左 持 同家歌合 建久七年
095 雪折の竹の下道跡もなし荒れにしのちの深草の里
右 内大臣家百首 健保三年
096 大伴の御津の浜風吹はらへ松とも見えじうづむ白雪
四十九番
左 持 院五十首
097 神さびていはふ御室の年ふりて猶ゆふかくる松の白雪
右 院百首 初度
098 ながめやる衣手さむく降雪にゆふやみしらぬ山の端の月
五十番
左 勝 最勝四天王院
099 お泊瀬や峰のときは木吹しほり嵐にくもる雪の山本
右 院百首 初度
100 白妙にたなびく雲を吹まぜて雪にあまぎる峰の松風
五十一番 恋
左 持 歌合百首
101 なびかじな海人のもしほ火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも
右 院句題五十首
102 しられじな千入の木の葉こがるとも時雨るる雲に色し見えねば
五十二番
左 勝 院百首 初度
103 松が根をいそべの浪のうつたえにあらはれぬべき袖の上かな
右 院百首
104 初雁のとわたる風のたよりにもあらぬ思ひを誰につたへん
五十三番
左 持 院百首 初度
105 久方のあまてる神のゆふかづらかけて幾世を恋わたるらん
右 三宮十五首
106 露時雨下草かけてもる山の色かずならぬ袖を見せばや
五十四番
左 勝 私百首 文治五年
107 名取河いかにせむともまだしらずおもへば人を恨つるかな
右 同上
108 逢ひ見てののちの心を先しればつれなしとだにえこそ恨ね
五十五番
左 勝 歌合百首
109 年もへぬ祈る契は初瀬山をのへの鐘のよその夕暮
右 同上
110 おもかげはおしへし宿にさきだちてこたへぬ風の松に吹声
五十六番
左 持 内大臣家百首 健保
111 世とともに吹上の浜のしほ風になびく真砂のくだけてぞ思ふ
右 同上
112 住の江の松のねたくやよる浪のよるとはなげき夢をだに見で
五十七番
左 持 同上
113 くるる夜は衛士のたく火をそれと見よ室の八島も都ならねば
右 同上
114 蘆の屋に蛍やまがふ海人やたく思ひも恋も夜はもえつつ
五十八番
左 勝 関白左大臣家百首
115 うへしげる垣根がくれの小篠原しられぬ恋はうきふしもなし
右 同上
116 夜な夜なの月も涙にくもりにき影だに見せぬ人をこふとて
五十九番
左 内大臣家百首
117 我袖にむなしき浪はかけそめつ契もしらぬ床の浦風
右 同上
118 白玉の緒断の橋の名もつらしくだけておつる袖の涙に
六十番
左 持 庚申五首
119 こひ死なぬ身のおこたりぞ年へぬるあらばあふよの心づよさに
右 内裏歌合
120 あふことはしのぶの衣あはれなどまれなる色に乱そめけん
六十一番
左 持 関白左大臣家百首
121 今のまの我身にかぎる鳥のねを誰うきものと帰りそめけん
右 歌合百首
122 忘れずはなれし袖もや氷覧ねぬ夜の床の霜の小莚
六十二番
左 持 同上
123 忘れじのちぎりうらむる故郷の心もしらぬ松虫の声
右 内裏歌合
124 こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ
六十三番
左 持 無題
125 たれもこのあはれみじかき玉の緒に乱れてものを思はずもがな
右 同上
126 いかがせむありしわかれを限にて此世ながらの心かはらば
六十四番
左 持 一字百首 建久元年
127 うつろはぬ色をかぎりに三室山時雨もしらぬ世を頼むかな
右 千五百首
128 消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露
六十五番
左 持 二見
129 あぢきなくつらきあらしの声もうしなど夕暮に待ならひけん
右 閑居
130 帰るさのものとや人のながむ覧待夜ながらの有明の月
六十六番
左 千五百番
131 おもかげは馴しながらの身にそひてあらぬ心の誰契覧
右 勝 恋身ヲ離レズ
132 心をばつらきものとて別れにし世世のおもかげ何したふらん
六十七番
左 勝 千五百番
133 思ひいでよ誰がきぬぎぬの暁も我またしのぶ月ぞ見ゆ覧
右 同上
134 久方の月ぞかはらで待たれける人には言ひし山の端の空
六十八番
左 勝 院百首
135 夜もすがら月にうれえてねをぞなく命にむかふ物思ふとて
右 同百首 初度
136 待つ人のこぬ夜のかげに面なれて山の端出る月もうらめし
六十九番
左 住吉社歌合
137 やどりせしかりほの萩の露ばかり消えなで袖の色に恋つつ
右 勝 院廿首 建暦二年
138 ちぎりおきし末のはら野のもと柏それともしらじよその霜枯
七十番
左 千五百番
139 あふことのまれなる色やあらはれん洩り出で染る袖の涙に
右 勝 院二十首
140 なく涙やしほの衣それながら馴ずは何の色かしのばむ
七十一番
左 千五百番
141 かれぬるはさぞなためしとながめてもなぐさまなくに霜の下草
右 勝 院廿首
142 秋の色にさてもかれなで蘆辺こぐ棚なし小舟我ぞつれなき
七十二番
左 持 伊呂波四十七首
143 せめておもふ今一度のあふことは渡らん河や契なるべき
右 無題
144 かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ
七十三番
左 持 同上
145 さぞなげく恋をするのが宇津の山うつつの夢のまたし見えねば
右 一字百首
146 はまゆふやかさなる山の幾重ともいさしら雲のそこの面影
七十四番
左 勝 和歌所 忘ラ被ル恋
147 むせぶともしらじな心かはら屋に我のみ消たぬ下の煙は
右 同所 月ノ前ノ恋
148 松山とちぎりし人はつれなくて袖越す浪にやどる月影
七十五番
左 内大臣家百首
149 たのめおきし後瀬の山の一ことや恋を祈りの命なりける
右 同上
150 形見こそあだの大野の萩の露うつろふ色はいふかひもなし
七十六番
左 勝 同上
151 袖の浦かりにやどりし月草のぬれてののちを猶やたのまん
右 関白大臣家百首
152 はるかなる人の心のもろこしはさはぐ湊にことづてもなし
七十七番
左 内大臣家百首
153 忘貝それも思ひのたねたえて人をみぬめのうらみてぞぬる
右 勝 同上
154 忘られぬ真間の継橋おもひ寝に通し方は夢に見えつつ
七十八番
左 持 千五百番
155 たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし
右 内裏名所百首
156 あだなみの高師の浜のそなれ松馴ずはかけて我恋めやも
七十九番
左 無題
157 心からあくがれそめし花の香になを物思ふ春の曙
右 勝 水無瀬殿恋十五首
158 白妙の袖のわかれに露落て身にしむ色の秋風ぞ吹
八十番
左 持 大輔百首
159 須磨の海人の袖に吹こす塩風のなるとはすれど手にもたまらず
右 内大臣家百首
160 やすらひに出でける方も白鳥の飛羽山松のねにのみぞなく
八十一番 雑
左 千五百番
161 おほかたの月もつれなき鐘の音に猶うらめしき有明の空
右 勝 北野聖廟ニ於テ之ヲ詠ム
162 下もゆるなげきの煙空に見よ今も野山の秋の夕暮
八十二番
左 持 千五百番
163 いく世へぬかざし折けんいにしへに三輪の檜原の苔の通路
右 十題百首
164 見ずしらずうづもれぬ名の跡やこれたなびき渡る夕暮の雲
八十三番
左 持 同上
165 出でてこし道のささ原しげりあひて誰ながむ覧故郷の月
右 仁和寺宮五十首
166 わくらばにとはれし人も昔にてそれより庭の跡はたえにき
八十四番
左 勝 和歌所歌合
167 もしほ汲袖の月かげをのづからよそにあかさぬ須磨の浦人
右 院句題五十首
168 虫明の松としらせよ袖の上にしぼりしままの波の月かげ
八十五番
左 勝 二見百首
169 忘るなよやどるたもとは変るともかたみにしぼる袖の月かげ
右 初学
170 わかれても心へだつな旅衣幾えかさなる山路なりとも
八十六番
左 持 左大臣家歌合 正治二年
171 忘れなむ松となつげそ中中に因幡の山の峰の秋風
右 同家歌合
172 いづくにかこよひは宿をかり衣日もゆふぐれの峰の嵐に
八十七番
左 持 仁和寺五十首
173 こととへよ思ひおきつの浜千鳥なくなくいでし跡の月影
右 内裏名所百首
174 関の戸をさそひし人は出でやらで有明の月のさやの中山
八十八番
左 持 関白家百首
175 都出でてあさたつ山の手向より露置とめぬ秋風ぞ吹
右 百廿八首
176 旅人の袖吹かへす秋風に夕日さびしき山の梯
八十九番
左 持 閑居
177 世の中を思ふ軒ばの忍草いく代の宿と荒れかはてなん
右 先妣ノ旧宅ニ於テ之ヲ詠ム
178 たまゆらの露も涙もとどまらずなき人こふる宿の秋風
九十番
左 持 建久四年九月尽詠
179 見し人のなき数まさる秋の暮わかれ馴たる心地こそせね
右 建永二年春
180 たのまれぬ夢てふもののうき世には恋しき人のえやは見えける
九十一番
左 持 百廿八首
181 あらし吹月の主は我ひとり花こそ宿と人も尋ぬれ
右 同上
182 うきよりは住みよかりけりと許よ跡なき霜に杉たてる庭
九十二番
左 栗田宮歌合 時ニ于官ヲ罷ム
183 和歌の浦やなぎたる朝のみをつくし朽ちねかひなき名だに残らで
右 勝 同上
184 思ひかね我夕暮の秋の日に三笠の山はさしはなれにき
九十三番
左 勝 同ジ比之ヲ詠ム
185 なきかげの親のいさめはそむきにき子を思ふ道の心よはさに
右 百廿八番
186 つゐに又いかにうき名のとどまらむ心ひとつの世をば慙づれど
九十四番
左 和歌所述懐
187 君が世にあはずは何を玉の緒のながくとまではおしまれじ身を
右 勝 院二十首 時ニ于建暦二年
188 思ふことむなしき夢の半天にたゆともたゆなつらき玉の緒
九十五番
左 内裏詩歌合
189 踏迷ふ山梨の花道たえて行さきふかきやへの白雲
右 勝 同上
190 はし鷹のとかへる山路超かねてつれなき色の限をぞ見る
九十六番
左 持 内大臣家百首
191 海渡る浦こぐ舟のいたづらに磯路を過てぬれし浪かな
右 同上
192 あれまくや伏見の里の出がてにうきをしらでぞ今日にあひぬる
九十七番
左 最勝四天王院障子
193 大井河まれの御幸に年へぬる紅葉のふなぢ跡は有けり
右 勝 同上
194 たらちめや又もろこしに松浦舟今年もくれぬ心づくしに
九十八番
左 納言ニ加ヘ任ジ外記庁ニ参ル
195 おさまれる民のつかさのみつき物ふたたびきくも命なりけり
右 勝 関白家百首
196 百敷のとのへをいづる夜ひ夜ひは待たぬにむかふ山の端の月
九十九番
左 持 千五百番
197 我道をまもらば君をまもる覧よはひはゆづれ住吉の松
右 伊勢外宮ニ参ル
198 契ありて今日宮河のゆふかづらながき世までにかけてたのまむ
百番
左 持 住吉社歌合
199 我君の常盤のかげは秋もあらじ月の桂の千代にあふとも
右 入内屏風
200 散もせじ衣にすれるささ竹の大宮人のかざす桜は
定家卿自筆之本ヲ以テ之ヲ写ス
天正二年正月廿九日
勅本ヲ以テ之ヲ校合シ畢ンス
元和四年夷則初六日
この「百番歌合」は、藤原定家さんがみずから自詠200首を撰び、架空の歌合風に仕立てた秀歌集です。収録和歌は、藤原定家さんが20歳のときから71歳のときまで、いわば生涯の詩華撰にあたります。単にそれまでの和歌を寄せ集めるのではなく、自詠を素材にして新しい文学作品をつくりあげました。同じ題にたいして、あの頃の定家さんとその頃の定家さんが和歌の美しさを競って火花をちらしております…なんて贅沢な!この緊張感!わあああ!「密密経天覧申請勅判」の相手は順徳天皇で、勝・持・負の判も順徳天皇によるものといわれています。
001
春日野では梅の枝に花が咲いているよ。立春の今日、もう春がきたのだと、人々は白梅のように白い雪の間から萌え出た若菜の緑色をつんでいる。
002
雪はまだ積もったままである。春風は雪を溶かしきってはいないのに、これではさらに深山は雪にうずまってしまったことだろう。この野辺にも淡雪が音もなく降り、若菜を摘みにきた都人の声を隠している。
003
早春、春の訪れを告げる梅は咲き誇り、気品ある香りは夜になってもあたりに満ちている。春霞にぼんやりとけむる夜空も、梅の香気をたっぷりと含み、色っぽくうるんで見える。女王のように光り輝く春の夜の月よ。朧な筋の切れ目から、地上に降り注ぐあなたのお姿を一目見ようと、私は夜が果てるのも忘れて目を凝らしていることです。
004
心にうかんだままにあてずっぽうで見分けようとしても見分けがつかない。やわらかな春風にのって白梅のはなびらがはらはらと散る里に、春の淡雪が降りまじっているよ。
005
遠すぎて、みわたす向こうにいらっしゃる遠方人に問いかけた私の声は聞こえなかったようだ。だけど、春風がこちらに運んだ美しい香りをかいだ瞬間わかったよ。遠方人が手にする白い花は、野辺に咲いた白梅のたわわに咲いた一枝なのだと。
006
闇の中、遠く飛鳥河の里に咲く梅の香りにつつまれたこんな夜には、春風の心を知ったような気がします。むやみやたらに吹いては花をちらしてしまう徒なものだとおもっていたけれど。
007
馥郁たる花の香をまとっておぼろにかがやく月のうつくしさに、私はすっかり魅入られてしまったようです。魂が抜けかかっているのか、このごろは夢すらはっきりとみることもできなくなってしまいました。
008
春の夜は、遠く月の中の桂までも匂いたつのでしょう。よりいっそう照り映える月光をうけて、地上のあらゆるものは純白に輝き、梅花を取り違えてしまいました。
009
外山(里近い山)だからといって、よそから見えることもないでしょう。春の着る衣、霞の衣を片敷いて寝た次の朝明け時の姿は。
010
春の夜の夢に架けられた浮橋がふつりと途切れて、めのまえに写るのは、峰と別れてゆくようにたなびいている横雲の空。「夢の浮橋」で、あやうい夢の中の逢瀬。源氏物語の幻想とその終末を暗示します。「横雲の空」で、朝雲暮雨の別れを惜しむ神女の妖艶な姿を連想させます。(「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、夕べは雨となり、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」楚の懐王が昼寝をしているとき夢の中にあらわれたという巫山神女の伝承より。)
011
里の海人の塩焼き衣が彼らの日焼けした肌に美しく調和するように、海辺の風景になれ親しんでいたのもしらずに調和から立ち別れていく春の帰る雁たち。
012
このひと春だけ花の色にほだされて留まってはくれないか、帰る雁よ。今年は越路の人に空しくあてにさせておくことにして。(「来し路」と「越路」の掛詞。「空」に空約束の意味を重ねる。)
013
桜の咲きそめた日から、吉野山は花も緑も空までもがひとつになって、ゆったりとたなびく白雲は春の色に薫っている。
014
霞たつ峰に咲く山桜は、朝ぼらけのなか、まるで紅色をくぐりぬけてゆく天の河の白浪のようです。
015
日は金に輝き、蜜の芳香のなかで目覚めた春は、鮮やかな枝をゆったりと風にそよがせている。振袖山の桜よ、その名のとおり、あなた達は天つ乙女が袖を振り舞うお姿なのでしょう。
016
桜の美しさを追いかけて野を駆けていたら、すっかり花霞の日は暮れてしまった。それでも私はまだ物足りなく、夢の中でもとおもうので、今夜はここで一晩、宿をかしておくれ。春の山守よ。
017
み吉野は花につれて移ろう山だから、まだ花の咲かない旧き里の空には、春になった今もなお深雪が降っている。
018
春風は散る花で一面を桜色にして、庭には足跡ひとつない。尋ねてきてはじめて、雪がふったのかと人は見もしようものを。本歌「今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや」(古今集・春上・在原業平、伊勢物語十七段)に問答した歌。
019
桜花が咲いては移ろう春の感動を幾度もすごして、いまやこの身まですっかり年老いてしまった。白い綿毛が白髪を連想させる浅茅生のすみかで。
020
あなたのおっしゃる「桜花の色はもう移ろってしまったよ」というだけのひとつの嘆きも尽くさぬままにまた新しい春は来て咲きほこり、散り乱れ、そうして幾年も幾年も喜びと嘆きが積み重なったものが春なのでしょう。本歌「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」(古今集・春下・小野小町)
021
私の寝起きする宿の槙の戸は、軒端に咲く花の陰にあるので、開けはなつと、臥す床も枕も花に映えて美しく見えます。春の曙の祝福のようなやさしい光につつまれて。たとえあなたが訪れぬまま迎えたさびしい夜明けだったとしても。
022
磨いたようにひかる水面には、地上の春がその色を映しこみ、手折って我が床に連れて帰ることのできない鏡の桜に、船頭は舟を進めてとろとろと水面をきる。棹をさしいれこぐたびにはぜる雫のひとつぶひとつぶにも、春はその姿を映し、香る、宇治河よ。
023
春に染まった名取河のお顔をみれば、その日数の深さはさながら人々に知られてしまうものでしょう。河の流れが右に左と立ち寄っては連れ去った瀬々の埋もれ木は、春風が水面に散り敷いた桜吹雪の底で眠っています。
024
その山の名が示すように、峰から吹き降ろす風は視界を吹雪のように白く閉ざし、この嵐はやみそうにありませんでしたが、夜明けとなって、閉ざした戸を開けると、うらうらと春の光が一面にそそぎ、草木のふちにのこる雫は静かに輝いていました。振り返って粗末な庵をみれば、戸に桜の花弁が張りついていて、昨日の嵐の描いた屏風絵の大胆さがなんとも爽快な、曙の空。
025
この風は賑やかな花の色も香りも、次から次へ、四方に誘うのだろう。昔のままのふるさとの春を、ひとりさびしく過ごす私の心もしらずに。
026
もし今日を逃して来ることができなかったら、この移り気な庭に春の気分は残っていただろうか。早くも風はすぎぬけて、梢の花をはらはらと散らしている。
027
網代木に桜の色をこきまぜながら、よせてはかえる浪に誘われたのか、かわいい春のかけらはどんどん遠くへ流れていってしまう。この浪をとめることなどできるのだろうか。
028
ああ、どれだけ霞も花もお前を愛し、戯れ、馴れ親しんでいたことか。お前は知っているのか、帰る鶯よ。おまえのいく先は、谷に雲が白くけぶって、見送りすらできない。
029
私とともに春をながめ、雫を受けとめてくれた袖は桜色にそまった。その愛着ある、分身のような春の衣を、更衣の今日、夏の一重に脱ぎかえるまでに、世の中はうつりかわってしまったのだな。過ぎさる月日の早さよ。
030
踏みしだく安積の沼に群生する夏草に、花かつみが乱れまじり、その上に信夫もじ摺りの模様の乱れが重なり合う。あなたへ恋こがれる私の心は乱れに乱れ、うっそうと生い茂る夏草にからみつき、ついに私の足は踏めぬ沼地を踏み、底に沈んで、もう抜け出すことすらできないのです。
031
誰のために鳴くのか、浮気な山ホトトギスよ。五月の夕べだからというので、なおも、おまえの訪れを待ちわびている私がいる。
032
幾夜も五月雨は降り続き、あつくはった雲の奥に月はかくれたまま出ようとはしない。つれない月を深山に置いて、ホトトギスはひとり、この里にやってきた。さあ、私の庭においでなさい。おまえの孤独を慰めてあげよう。
033
ただむなしく雲が垂れこめる松の葉に、いつ止むともなく降りそそいでいる五月雨の、空の景色。松のするどい葉に雨粒の砕け散る音だけが、さめざめと頭上でこだまする、山の中で。
034
山里の楢の軒端にのびる梢の向こうを、雲がこえていく。侘び住まいをこの上さらに閉じ込めないでおくれ、五月雨の雲よ。
035
道行き人に託したあのひとからの伝言も、いまではすっかり途絶えてしまいました。雲はどんよりとたちこめ、八方塞の空からは五月雨がしくしく降り続いています。
036
鳴き声がする。夜の終わりをけたたましく告げる木綿付け鳥の声が。おまえの尾は長く優雅な姿をしているというのに。となりで眠る恋人の安らかな寝息を、まだおこさないでおくれ。なんと夜の短いことか。
037
互いの縁をひきむすぶ片糸をたぐって縒りあわせるように、夜毎峰でともす狩りの照射の火に出会わないでいたら、あわれな鹿は命を落とすこともなかっただろうものを。さあ、では、あなたと私との縁はどうだろうか。(「夢野の鹿」伝説を連想させる和歌です。昔、夢野(現在:神戸市)に夫婦の鹿がおり、夫の鹿には淡路の野島に妾の鹿がいて、夢野と野島を海を泳いで行き来していました。夫はある夜、妻のいる夢野で眠っているときに、自分の背に雪が降り、すすきが生える夢を見ました。妻はこの夢を夫が人間に射殺される前兆の夢だと占って、野島には行かないでくれとひきとめました。しかし、夫は妾の鹿恋しさにたまらず野島へ泳ぎ向かい、その途中の海で船人に射殺されてしまいました。というもの。)
038
月の中にあるという桂にその名を因む桂河。その桂河を漁場にする鵜飼は、どのような前世からの約束ゆえに、いちずに暗闇を待っては、罪深き仕事に袖を濡らすのか。
039
芦屋の里の蘆を刈り、仮寝の床をこしらえて、ほんのつかの間、節の間のように短い時間を伏したかと思えばすぐに明ける夏の夜。そんな夜を幾世も重ねています。
040
緑濃い夏草の茂みの下にまじって咲く小百合葉が、人知れずうちなびいている。気づかぬほどかすかに、はやくも秋の風は吹き通っている。(あなたへの恋心はひっそりと、きづかぬほどにちいさく、しかしたしかにこの私の胸に。)
041
もう夏は終わりだと別れを告げるように有明の月の光が槙の戸に射しこんでいる。やはり名残惜しい水無月の空。
042
飛鳥河の流れゆく瀬の浪に、夏越祓の禊をして、あらためておどろく。早くも一年の半ばは過ぎ去ってしまったのだと。
043
もう秋なのだとまだはっきりとは吹きかねている風に触れて、早くも色が変わっているよ。生田の杜の露に濡れた下草は。
044
須磨の浦人の日ごろ潮に濡れ馴れた袖も、折から涙でさらにしおたれてしまう。関を吹き越える秋の浦風がひどく物哀しいので。
045
浅茅生の小野の篠原はみなそろってうちなびき、地上の草木をなでる秋風は、旅行く人々の裾をひるがえす。
047
色が映りきれないほど群がり咲く花の千草と乱れあいながら、ゆれる風の上で、いまにもこぼれ落ちそうな宮城野の露よ。
048
散るならば散ってしまえ。私はおそれずまっすぐに萩原の露を分けて行こう。私の袖が濡れて、のちに色はうつろおうとも、萩の花摺りはのこるだろう。それを花の形見とするために。
049
はるかな昔を偲べと言わんばかりに、私のしらない昔を経て、けして衰えることもなく、古人の見つめた月が月のまま形見のように、秋の夜空に残されています。
050
いくつもの秋をこえて、なつかしさは遥か彼方にある。目ではこんなにもはっきりと見え、月光のやわらかさすら肌で感じとることができるのに、もうあの方はここにはいない。私ひとりはもとのまま、また昔と同じこの秋を迎え、半身を欠いた月影を足元に縫いつけている。
051
仰ぎ見る天の原は、思えば秋に咲く星の色などないのです。しかし、月の光こそはまぎれもなく秋の色に輝いています。
052
どうすればいいのでしょうか。それでなくとも憂き世はかなしいことばかりで、物思いに疲れたこの心を癒そうと月を仰ぎ見たのに、涙がとまりません。
053
ぼんやりと月を眺めていると、心に数々のことが浮かんでは消えていきます。これらは私を悩ませてはきましたが、すべてはくだらないことなのだと、気づきました。空には空しく秋の夜の月が浮かんでいます。
054
古の御世のときからでさえ、そのように振舞ってきたのでしょう。旧都を照らす秋の月よ。あなたはいったい幾つの夜をこえ、めぐり、この忘れ去られた故郷に慈愛を注ぎつづけてきたのでしょうか。
055
一年に一度、十五夜の夜。この美しい月が西に沈めば、また今年も秋の半分は過ぎてしまったことになります。夜明けは刻々とせまり、天を見つめる私は切ないきもちでいっぱいです。これは西へ傾いていく今夜の月だけが惜しいというのではありません。
056
いくつの里をたどり、露に満ちた野辺の底で夜をあかしてきたのだろうか。はるばる都へやってきたこの望月の馬は。つややかな毛なみは名月をふくんだように輝いてみえる。
057
高砂の尾上の鹿の鳴く声がたてた切ない風につられて、ますます秋の輝きを増していく月であるよ。
058
露は冴え冴えと反射し、さながら眠れぬ夜の月が積もったのでしょう。今朝の浅茅の色は目を疑うほどの変わりようです。
059
ひとり眠る山鳥のしだり尾のように長くさみしい夜。恋人がすっかりお訪れなくなってしまった私の床は、月影にさらされて霜に見間違うほど白く凍てついています。
060
下萩も起き臥す、夜深くにやっとのぼってくる臥し待ち月を待っている。月の色は静まり返り、恋人の訪れる気配のない私を哀しくさせる秋風が床を吹き抜けていく。
061
白妙の衣をしきりにうつ切ない砧の音が響いている。そのためか、この野辺は一面が霜に見間違えるほどに、ひときわ白く、色にさびしさがあらわれている。
062
秋のせいだからといって、この憂鬱な気持ちをわすれようと思って眺めていた月の光なのに、折りしも悪く、女が愛する男を思いながらうつという砧の音が響いてきて、どうしてもこの景色から秋の物悲しさを忘れ去ることができない。
063
妻のいない山賤のうつ砧は、わが身ひとりだけのために打ち付けているのだから、その音が響くたび、みずからの手のひらに、思うがまま秋の哀しみを感じているのだろう。
064
河風につられて夜空をわらる月影が寒いので、宇治の里人も促されて衣を打つようです。砧の音が凍てつく夜風とともに響きわたっています。
065
実り多く頭を垂れた稲穂は、秋風と一緒にさあさあとそよいでいます。私は床にもぐりこんだまま眠れずに、あなたが訪れてくださるのを待ち続けていたら、とうとう夜明けを告げるかのような初雁の声が聞こえてきました。冬がはじまろうとしている。
066
伊駒山の嵐は、紅葉を吹きあらしている。暴風雨の叫びは、まるで紅葉を手染めして美しい錦を織るといわれている秋の女神・竜田姫が心を乱しながら糸をよりあわせ、訪れぬ恋人をひとり待つ彼女のさびしい夜を連想させて、かなしい。
067
高砂のほかにも、いたるところに秋は有るというのに、このさびしい夕暮れは私のものといわんばかりに、妻を恋しがる鹿が切なげに鳴いている。
068
美しくさびしい秋よ。思いを尽くさぬ内に、急いで過ぎ去ろうとしないでおくれ。小男鹿が妻を恋しがって鳴く声が響く小田の山中には、早くも冬を告げる霜がおりている。
069
小男鹿の臥し起きする寝床の草むらは、端から徐々に枯れはじめ、錦のような千草の、草葉の下葉をあらわにすうような秋風が冷たく吹き抜けていく。
070
夕日のさしこむ向こう側の丘は薄い紅葉の景色で、早々と物悲しい秋の色をこちらに見せています。
071
幾度もしぐれて袖を乾かすひまさえない秋の日ですから、さぞかし三室の山では紅葉が色濃く染め上げているのでしょう。
072
ここは月の中にある桂の木の影のうちなのだろうか。月光のもと、紅葉した千草に旅枕を結んで宿をかりた私の袖は、紅の涙が照り映えて、ますますさびしさは高まって、色を濃くしていく。
081
冬がきて、まだ一晩か二晩か、それだけなのに玉笹の葉を分けて下葉にまで置く霜は溢れんばかりだ。
082
晴れては曇る空。私と同じように眺めていてほしいという頼みさえも、降り始めた時雨のために途絶えてしまう。遠い里のあの人を思う。
083
十月の早く暮れてしまう夕日の色だから、霜のおいた下葉に風は留まることなく吹き抜けていく。
084
ハナススキの草の袂も今は朽ち果ててしまった。馴れて、末には別れた秋を恋しがって流す涙のために。
085
朝夕と聞く音は時雨ばかりだった楢柴の住みかに、いつ降りかわったのだろうか、霰の音が聞こえる。冬は確実に深まりつつあるのだな。
086
霰が降る賤の山人の粗末な笹屋に、そうでしょうとも、さらさらと笹の葉音のごとく簡単に、一晩でさえ夢見るほどに眠れるでしょうか
087
信楽の外山には霰が盛んに降って、いよいよ荒れてゆく冬の雲の色よ。
088
山賤が朝明け方に小屋で焚く柴を、少しの間ぼんやり見つめていたら、知らぬ間に日暮れとなってしまう、日の短い冬の空よ。
089
旅寝に見えた夢路は途絶えてしまった。ここは須磨の関、聞こえてくるのは通い来る千鳥が暁に向かって鳴く哀しい声ばかり。
090
鳴く千鳥よ。どうか訪ねて来ておくれ。唐土の渡る船にも寄るという、夜の寝覚めに泣く私の涙で溢れた袖の湊を。
091
浦風が吹いて、浪は永遠に浜松の常盤の緑を越して打ち寄せる。その松の根があらわれるように、声にだして泣く千鳥よ。
092
志賀の浦に、氷は幾重張っていることだろう。その氷の上にいる鶴の、霜の置いた白い上毛に雪が降り重なっている。
093
駒をとめて、積もった袖の雪を払うような物陰も見当たらない。佐野のわたりの、雪につつまれた夕暮れ時。
本歌「苦しくも降り来る雨か神(みわ)の崎狭野の渡りに家もあらなくに」(万葉集三・長奥麿)
094
私の待つあの人がたどって来る麓の道は、もう雪に埋もれて途絶えてしまっただろうか。この軒端の杉に雪は一段と重く積もってゆくようだ。
095
雪折れの竹の下道には、かつて通った人の足跡ひとつとてない。荒れてしまったのち、誰も訪れないさびしい深草の里よ。
096
大伴の御津の浜風よ。浜松に積もった雪を吹き払っておくれ。白雪が埋め尽くしていて、松なのだとも見えないだろうから。唐土から来朝する人々も、こちらでひたすら待っているとは気づかないだろうから。
097
神々しくも、いわいまつる御室の神は、はるかな年を経ているけれど、さらに緑の松に積もった白雪が清らかな白木綿をかける。
098
眺めやる私の袖にも冷たく雪は降る。雪あかりのために夕闇を知らないほど仄白い彼方の山の端に月が光る。
099
おはつせの峰の常盤木をたわませて吹く嵐のために、雪の降る山本は雲って見える。
100
峰の待つを吹く風は、白妙にたなびいている雲を雪とふきまぜて、空一面に雪が霧のようにかかっている。