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執筆者の写真青木静香:Visual Artist

宮沢賢治「インドラの網」

更新日:2019年2月25日


宮沢賢治(1896-1933)は、大正時代の詩人。児童文学作家。農業学校教師。法華経を篤く信仰し、美しい詩世界を展開する。代表作は『春と修羅』『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』など。

「インドラの網」 

そのとき私は大へんひどく疲つかれていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。


その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。

そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツェラ高原をあるいて行きました。

こけももには赤い実もついていたのです。

白いそらが高原の上いっぱいに張って高陵産の磁器よりもっと冷たく白いのでした。

稀薄な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白磁器の雲の向こうをさびしく渡わたった日輪がもう高原の西を劃る黒い尖々の山稜の向うに落ちて薄明が来たためにそんなに軋んでいたのだろうとおもいます。

私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。

ただ一かけの鳥も居ず、どこにもやさしい獣のかすかなけはいさえなかったのです。

(私は全体何をたずねてこんな気圏の上の方、きんきん痛む空気の中をあるいているのか。)

私はひとりで自分にたずねました。

こけももがいつかなくなって地面は乾いた灰いろの苔で覆われところどころには赤い苔の花もさいていました。


けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛を増すばかりでした。

そしていつか薄明は黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁りました。

そのとき私ははるかの向こうにまっ白な湖を見たのです。

(水ではないぞ、また曹達や何かの結晶だぞ。いまのうちひどく悦んで欺されたとき力を落としちゃいかないぞ。)


私は自分で自分に言いました。

それでもやっぱり私は急ぎました。 


湖はだんだん近く光ってきました。


間もなく私はまっ白な石英の砂とその向うに音なく湛えるほんとうの水とを見ました。

砂がきしきし鳴りました。


私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。


すきとおる複六方錐の粒だったのです。

(石英安山岩か流紋岩から来た。)

私はつぶやくようにまた考えるようにしながら水際に立ちました。

(こいつは過冷却の水だ。氷相当官なのだ。)


私はも一度こころの中でつぶやきました。

全く私のてのひらは水の中で青じろく燐光を出していました。

あたりが俄にきいんとなり、

(風だよ、草の穂だよ。ごうごうごうごう。)


こんな語が私の頭の中で鳴りました。


まっくらでした。


まっくらで少しうす赤かったのです。

私はまた眼を開きました。

いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。


 敵に灼きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流ながれ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。

またその桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。

私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。


恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われました。

けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。

それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮かんできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変わっていたことから実にあきらかだったのです。

その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔かけているのを私は見ました。

(とうとうまぎれ込こんだ、人の世界のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)


私は胸を躍らせながら斯う思いました。

天人はまっすぐに翔けているのでした。

(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動いていない。少しも動かずに移うつらずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)


私は斯うつぶやくように考えました。

天人の衣はけむりのようにうすくその瓔珞は昧爽の天盤からかすかな光を受うけました。

(ははあ、ここは空気の稀薄が殆んど真空に均しいのだ。だからあの繊細な衣のひだをちらっと乱す風もない。)


私はまた思いました。

天人は紺いろの瞳を大きく張ってまたたき一つしませんでした。


その唇は微かに哂いまっすぐにまっすぐに翔けていました。


けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。

(ここではあらゆる望みがみんな浄められている。願いの数はみな寂められている。重力は互いに打ち消され冷たいまるめろの匂いが浮動するばかりだ。だからあの天衣の紐も波立たずまた鉛直に垂れないのだ。)

けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変わりその天人の翔ける姿をもう私は見ませんでした。

(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込こみなどは結局あてにならないのだ。)


斯う私は自分で自分に誨えるようにしました。


けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似たかおりがまだその辺に漂よっているのでした。


そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢のように感じたのです。

(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居いるらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原で天の世界を感ずることができる。)


私はひとりで斯う思いながらそのまま立っておりました。

そして空から瞳を高原に転てんじました。


全く砂はもうまっ白に見えていました。


湖は緑青よりももっと古びその青さは私の心臓まで冷たくしました。

ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。


それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇のを待っているようでした。


その東の空はもう白く燃えていました。


私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統なのを知りました。


またそのたしかに于闐大寺の廃趾から発掘された壁画の中の三人なことを知りました。


私はしずかにそっちへ進み愕かさないようにごく声低く挨拶しました。

「お早う、于闐大寺の壁画の中の子供さんたち。」

三人一緒にこっちを向きました。


その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。

私は進みながらまた云いました。

「お早う。于闐大寺の壁画の中の子供さんたち。」

「お前はだい。」

右はじの子供がまっすぐに瞬きもなく私を見て訊ねました。

「私は于闐大寺を沙の中から掘り出した青木晃というものです。」

「何しに来たんだい。」


少しの顔色もうごかさずじっと私の瞳を見ながらその子はまたこう云いました。

「あなたたちと一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。」

「そうですか。もうじきです。」


三人は向こうを向きました。


瓔珞は黄や橙や緑の針のようなみじかい光を射、羅は虹のようにひるがえりました。

そして早くもその燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯いろの原のはてから熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉の中の朱、一きれの光るものが現れました。

天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌しました。

それは太陽でした。


厳かにそのあやしい円い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。


光は針や束になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。

天の子供らは夢中になってはねあがりまっ青な寂静印の湖の岸硅砂の上をかけまわりました。


そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指さして叫びました。

「ごらん、そら、インドラの網を。」

私は空を見ました。


いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互いに交錯し光って顫えて燃えました。

「ごらん、そら、風の太鼓。」


も一人がぶっつかってあわてて遁げながら斯う云いました。


ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く藍や黄金や緑や灰いろに光り空から陥ちこんだようになり誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。


私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。

「ごらん、蒼孔雀を。」


さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。


まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。


その孔雀はたしかに空には居りました。


けれども少しも見えなかったのです。


たしかに鳴いておりました。


けれども少しも聞えなかったのです。

そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。

却って私は草穂と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。


 
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