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「序」


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 

     大正十三年一月廿日

宮沢賢治

「春と修羅(mental sketch modified)」


心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

(一九二二、四、八)

「有明」

起伏の雪は
あかるい桃の漿をそそがれ
青ぞらにとけのこる月は
やさしく天に咽喉を鳴らし
もいちど散乱のひかりを呑む
  (波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶)
昨夜降りしきった雪は、いまはもうすっかりやみました。
大地の起伏にそってなだらかに降り積もった新雪は
神々しい日の出をうけて虹色に輝き
まるで極楽浄土に実った桃の果汁をそそがれたようです。
晴れ渡った青空には、遠く有明の月が
白く、うすく、
まるでいまにも溶けてしまいそうな色で浮かび、この美しい景色を受け止めています。
(こくり、こくりと美酒をのむがごとく)
朝日と雪原と青空が織りなす虹色の祝福を
有明の月は
そして地上にひとりたつ私は
時をわすれて
(こくり、こくりと美酒をのむがごとく)
あたたかい高揚で内側が満たされていく喜びに
私は手をあわせ拝みました。
​(ハラサムギャティ ボージュ ソワカ)
​地上を這う修羅の私は未だ解を得ず、あなたさまにとっては一瞬だけの存在ですが、まことをもとめて往きてまいります。
​迷い多き私の心を美しい朝の景色で抱きしめてくださり、感謝します。
▽漿【こんず】
うまい汁の意味。極楽浄土に実る桃の果汁の意味。
▽波羅僧羯諦/菩提/薩婆訶【ハラサムギャティ/ボージュ/ソワカ】
般若心経のマントラの一部。おおよその意味は、「(往きて往きて、彼岸に往き)完全に彼岸に到達した者こそ悟りそのものである、めでたし」

 

 

 

 

 


原体剣舞連(mental sketch modified)

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴾いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにささげ
菩提樹皮と縄とをまとう
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる顥気をふかみ
楢と椈とのうれいをあつめ
蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけずらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho! Ho! Ho!
     むかし達谷の悪路王
     まっくらくらの二里の洞
     わたるは夢と黒夜神
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかがりにゆすれ
     青い仮面このこけおどし
     太刀を浴びてはいっぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛おどり
     胃袋はいてぎったぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合わせ
霹靂の青火をくだし
四方の夜の鬼神をまねき
樹液もふるうこの夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがえし
雹雲と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は射そそぐ銀の矢並
打つも果はてるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萱穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがわら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

 

 

 

「月天子」 

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆われ
またそこに日が射しているのもはっきり見た
後そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合いになった
盛岡測候所の私の友だちは
──ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
またその軌道や運転が
簡単な公式に従うことを教えてくれた
しかもおお
わたくしがその天体を月天子と称しうやまうことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
そういふならば誤りであるように
さりとて人は
からだと心であるというならば
これも誤りであるように
さりとて人は心であるというならば
また誤りであるように

しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

 

「月天讃歌(擬古調)」 

兜の尾根のうしろより
月天ちらとのぞきたまえり

月天子ほのかにのぞみたまえども
野の雪いまだ暮れやらず
しばし山はにたゆたいおわす

決然として月天子
山をいでたち給ひつつ
その横雲の黒雲の
さだめの席に入りませりけり

月天子まことはいまだ出でまさず
そはみひかりの異りて
赤きといとど歪みませると

月天子み丈のなかば黒雲に
うずもれまして笑み給いけり

なめげにも人々高くもの言いつつ
ことなく仰ぎまつりし故
月天子また山に入ります
   
   兜の尾根のうしろより
   さも月天子
   ふたたびのぞみ出でたもうなり

月天子こたびはそらをうちすぐる
氷雲のひらに座しまして
無生を観じたもうさまなり

月天子氷雲を深く入りませど
空華は青く降りしきりけり

月天子すでに氷雲を出でまして
雲あたふたとはせ去れば
いまは怨親平等の
ひかりを野にぞながしたまへり

「東岩手火山」


月は水銀 後夜の喪主
火山礫は夜の沈澱
火口の巨きなえぐりを見ては
たれもみんな驚くはずだ
  (風としずけさ)
いま漂着する薬師外輪山
頂上の石標もある
  (月光は水銀 月光は水銀)
≪こんなことはじつにまれです
向うの黒い山……って それですか
それはここのつづきです
ここのつづきの外輪山です
あすこのてっぺんが絶頂です
向うの?
向うのは御室火口です
これから外輪山をめぐるのですけれども
いまはまだなんにも見えませんから
もすこし明るくなってからにしましょう
ええ 太陽が出なくても
あかるくなって
西岩手火山のほうの火口湖やなにか
見えるようにさえなればいいんです
お日さまはあすこらへんで拝みます≫
 黒い絶頂の右肩と
 そのときのまっ赤な太陽
 わたくしは見ている
 あんまり真赤な幻想の太陽だ
≪いまなん時です
三時四十分?
ちょうど一時間
いや四十分ありますから
寒いひとは提灯でも持って
この岩のかげに居てください≫
 ああ 暗い雲の海だ
≪向うの黒いのはたしかに早池峰です
線になって浮きあがってるのは北上山地です
 うしろ?
 あれですか
あれは雲です 柔らかそうですね
雲が駒ヶ岳に被さったのです
水蒸気を含んだ風が
駒ヶ岳にぶっつかって
上にあがり
あんなに雲になったのです
鳥海山は見えないようです
けれども
夜が明けたら見えるかもしれませんよ≫
  (柔かな雲の波だ
   あんな大きなうねりなら
   月光会社の五千噸の汽船も
   動揺を感じはしないだろう
   その質は
   蛋白石 glass-wool
   あるいは水酸化礬土の沈澱)
≪じっさいこんなことは稀なのです
わたくしはもう十何べんも来ていますが
こんなにしずかで
そして暖かなことはなかったのです
麓の谷の底よりも
さっきの九合の小屋よりも
却って暖かなくらいです
今夜のようなしずかな晩は
つめたい空気は下へ沈んで
霜さえ降らせ
暖い空気は
上に浮んで来るのです
これが気温の逆転です≫
 御室火口の盛もりあがりは
 月のあかりに照らされているのか
 それともおれたちの提灯のあかりか
 提灯だというのは勿体ない
 ひわいろで暗い
≪それではもう四十分ばかり
寄り合って待っておいでなさい
そうそう 北はこっちです
北斗七星は
いま山の下の方に落ちていますが
北斗星はあれです
それは小熊座という
あの七つの中なのです
それから向うに
縦に三つならんだ星が見えましょう
下には斜めに房が下ったようになり
右と左とには
赤と青と大きな星がありましょう
あれはオリオンです オライオンです
あの房の下のあたりに
星雲があるというのです
いま見えません
その下のは大犬のアルファ
冬の晩いちばん光って目立つやつです
夏の蝎とうら表です
さあみなさん ご勝手におあるきなさい
向うの白いのですか
雪じゃありません
けれども行ってごらんなさい
まだ一時間もありますから
私もスケッチをとります≫
 はてな わたくしの帳面の
 書いた分がたった三枚になっている
 事によると月光のいたずらだ
 藤原が提灯を見せている
 ああ頁が折れ込んだのだ
 さあでは私はひとり行こう
 外輪山の自然な美しい歩道の上を
 月の半分は赤銅 地球照
≪お月さまには黒い処もある≫
≪後藤又兵衛いっつも拝んだづなす≫
 私のひとりごとの反響に
 小田島治衛が言っている
≪山中鹿之助だろう≫
 もうかまわない 歩いていい
   どっちにしてもそれは善いことだ
二十五日の月のあかりに照らされて
薬師火口の外輪山をあるくとき
わたくしは地球の華族である
蛋白石の雲は遥にたたえ
オリオン 金牛 もろもろの星座
澄み切り澄みわたって
瞬きさえもすくなく
わたくしの額の上にかがやき
 そうだ オリオンの右肩から
 ほんとうに鋼青の壮麗が
 ふるえて私にやって来る
三つの提灯は夢の火口原の
白いとこまで降りている
≪雪ですか 雪じゃないでしょう≫
困ったように返事しているのは
雪でなく 仙人草のくさむらなのだ
そうでなければ高陵土
残りの一つの提灯は
一升のところに停っている
それはきっと河村慶助が
外套の袖にぼんやり手を引っ込めている
≪御室の方の火口へでもお入りなさい
噴火口へでも入ってごらんなさい
硫黄のつぶは拾えないでしょうが≫
斯んなによく声がとどくのは
メガホーンもしかけてあるのだ
しばらく躊躇しているようだ
 ≪先生 中さ入ってもいがべすか≫
≪ええ おはいりなさい 大丈夫です≫
提灯が三つ沈んでしまう
そのでこぼこのまっ黒の線
すこしのかなしさ
けれどもこれはいったいなんといういいことだ
大きな帽子をかぶり
ちぎれた繻子のマントを着て
薬師火口の外輪山の
しずかな月明を行くというのは
この石標は
下向の道と書いてあるに相違ない
火口のなかから提灯が出て来た
宮沢の声もきこえる
雲の海のはてはだんだん平らになる
それは一つの雲平線をつくるのだ
雲平線をつくるのだというのは
月のひかりのひだりから
みぎへすばやく擦過した
一つの夜の幻覚だ
いま火口原の中に
一点しろく光るもの
わたくしを呼んでいる呼んでいるのか
私は気圏オペラの役者です
鉛筆のさやは光り
速かに指の黒い影はうごき
唇を円くして立っている私は
たしかに気圏オペラの役者です
また月光と火山塊のかげ
向うの黒い巨きな壁は
熔岩か集塊岩 力強い肩だ
とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
あすこからこっちへ出て来るのだ
なまぬるい風だ
これが気温の逆転だ
  (つかれているな
   わたしはやっぱり睡いのだ)
火山弾には黒い影
その妙好の火口丘には
幾条かの軌道のあと
鳥の声!
鳥の声!
海抜六千八百尺の
月明をかける鳥の声
鳥はいよいよしっかりとなき
私はゆっくりと踏み
月はいま二つに見える
やっぱり疲れからの乱視なのだ
かすかに光る火山塊の一つの面
オリオンは幻怪
月のまわりは熟した瑪瑙と葡萄
あくびと月光の動転
    (あんまりはねあるぐなじゃない
     汝ひとりだらいがべあ
     子供等ども連れでて目にあえば
     汝ひとりであすまないんだじゃい)
火口丘の上には天の川の小さな爆発
みんなのデカンシヨの声も聞える
月のその銀の角のはじが
潰れてすこし円くなる
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふっと撚りになつて飛ばされて来る
きっと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液に
また水を加えたようなのだろう
東は淀み
提灯はもとの火口の上に立つ
また口笛を吹いている
わたくしも戻る
わたくしの影を見たのか提灯も戻る
  (その影は鉄いろの背景の
   ひとりの修羅に見える筈だ)
そう考えたのは間違いらしい
とにかくあくびと影ぼうし
空のあの辺の星は微かな散点
すなはち空の模様がちがっている
そして今度は月が蹇まる

 

 

 

 


「インドラの網」 

そのとき私は大へんひどく疲つかれていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。

その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。
そしてただひとり暗いこけももの敷物を踏んでツェラ高原をあるいて行きました。
こけももには赤い実もついていたのです。
白いそらが高原の上いっぱいに張って高陵産の磁器よりもっと冷たく白いのでした。
稀薄な空気がみんみん鳴っていましたがそれは多分は白磁器の雲の向こうをさびしく渡わたった日輪がもう高原の西を劃る黒い尖々の山稜の向うに落ちて薄明が来たためにそんなに軋んでいたのだろうとおもいます。
私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。
ただ一かけの鳥も居ず、どこにもやさしい獣のかすかなけはいさえなかったのです。
(私は全体何をたずねてこんな気圏の上の方、きんきん痛む空気の中をあるいているのか。)
私はひとりで自分にたずねました。
こけももがいつかなくなって地面は乾いた灰いろの苔で覆われところどころには赤い苔の花もさいていました。

けれどもそれはいよいよつめたい高原の悲痛を増すばかりでした。
そしていつか薄明は黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁りました。
そのとき私ははるかの向こうにまっ白な湖を見たのです。
(水ではないぞ、また曹達や何かの結晶だぞ。いまのうちひどく悦んで欺されたとき力を落としちゃいかないぞ。)

私は自分で自分に言いました。
それでもやっぱり私は急ぎました。 

湖はだんだん近く光ってきました。

間もなく私はまっ白な石英の砂とその向うに音なく湛えるほんとうの水とを見ました。
砂がきしきし鳴りました。

私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。

すきとおる複六方錐の粒だったのです。
(石英安山岩か流紋岩から来た。)
私はつぶやくようにまた考えるようにしながら水際に立ちました。
(こいつは過冷却の水だ。氷相当官なのだ。)

私はも一度こころの中でつぶやきました。
全く私のてのひらは水の中で青じろく燐光を出していました。
あたりが俄にきいんとなり、
(風だよ、草の穂だよ。ごうごうごうごう。)

こんな語が私の頭の中で鳴りました。

まっくらでした。

まっくらで少しうす赤かったのです。
私はまた眼を開きました。
いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。

 敵に灼きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流ながれ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。
またその桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。
私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。

恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われました。
けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。
それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮かんできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変わっていたことから実にあきらかだったのです。
その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔かけているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ込こんだ、人の世界のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)

私は胸を躍らせながら斯う思いました。
天人はまっすぐに翔けているのでした。
(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動いていない。少しも動かずに移うつらずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)

私は斯うつぶやくように考えました。
天人の衣はけむりのようにうすくその瓔珞は昧爽の天盤からかすかな光を受うけました。
(ははあ、ここは空気の稀薄が殆んど真空に均しいのだ。だからあの繊細な衣のひだをちらっと乱す風もない。)

私はまた思いました。
天人は紺いろの瞳を大きく張ってまたたき一つしませんでした。

その唇は微かに哂いまっすぐにまっすぐに翔けていました。

けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。
(ここではあらゆる望みがみんな浄められている。願いの数はみな寂められている。重力は互いに打ち消され冷たいまるめろの匂いが浮動するばかりだ。だからあの天衣の紐も波立たずまた鉛直に垂れないのだ。)
けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変わりその天人の翔ける姿をもう私は見ませんでした。
(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込こみなどは結局あてにならないのだ。)

斯う私は自分で自分に誨えるようにしました。

けれどもどうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似たかおりがまだその辺に漂よっているのでした。

そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢のように感じたのです。
(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居いるらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原で天の世界を感ずることができる。)

私はひとりで斯う思いながらそのまま立っておりました。
そして空から瞳を高原に転てんじました。

全く砂はもうまっ白に見えていました。

湖は緑青よりももっと古びその青さは私の心臓まで冷たくしました。
ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。

それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇のを待っているようでした。

その東の空はもう白く燃えていました。

私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統なのを知りました。

またそのたしかに于闐大寺の廃趾から発掘された壁画の中の三人なことを知りました。

私はしずかにそっちへ進み愕かさないようにごく声低く挨拶しました。
「お早う、于闐大寺の壁画の中の子供さんたち。」
三人一緒にこっちを向きました。

その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。
私は進みながらまた云いました。
「お早う。于闐大寺の壁画の中の子供さんたち。」
「お前はだい。」
右はじの子供がまっすぐに瞬きもなく私を見て訊ねました。
「私は于闐大寺を沙の中から掘り出した青木晃というものです。」
「何しに来たんだい。」

少しの顔色もうごかさずじっと私の瞳を見ながらその子はまたこう云いました。
「あなたたちと一緒にお日さまをおがみたいと思ってです。」
「そうですか。もうじきです。」

三人は向こうを向きました。

瓔珞は黄や橙や緑の針のようなみじかい光を射、羅は虹のようにひるがえりました。
そして早くもその燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯いろの原のはてから熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉の中の朱、一きれの光るものが現れました。
天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌しました。
それは太陽でした。

厳かにそのあやしい円い熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。

光は針や束になってそそぎそこらいちめんかちかち鳴りました。
天の子供らは夢中になってはねあがりまっ青な寂静印の湖の岸硅砂の上をかけまわりました。

そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指さして叫びました。
「ごらん、そら、インドラの網を。」
私は空を見ました。

いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互いに交錯し光って顫えて燃えました。
「ごらん、そら、風の太鼓。」

も一人がぶっつかってあわてて遁げながら斯う云いました。

ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く藍や黄金や緑や灰いろに光り空から陥ちこんだようになり誰も敲かないのにちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながらそれで少しも鳴っていなかったのです。

私はそれをあんまり永く見て眼も眩くなりよろよろしました。
「ごらん、蒼孔雀を。」

さっきの右はじの子供が私と行きすぎるときしずかに斯う云いました。

まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。

その孔雀はたしかに空には居りました。

けれども少しも見えなかったのです。

たしかに鳴いておりました。

けれども少しも聞えなかったのです。
そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。
却って私は草穂と風の中に白く倒れている私のかたちをぼんやり思い出しました。
 

「序」
「春と修羅」
「有明」
「原体剣舞連」
「月天子」
「月天賛歌(擬古調)」
「東岩手火山」
「インドラの網」
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